シャンティリィ――パパと私の二人で切り盛りしている小さな料理屋の名前だ。お酒を扱う夜の営業がメインだけど、ランチタイムもやっている。
料理を作るのはほとんどパパの仕事で、私はお手伝いみたいなものだけど、それでもここで働くのは楽しい。
ママが病気で天国に行ってしまい、寂しくて部屋でずっと泣いていた時期があった。
見かねたパパが「お店に出てみないか」と誘ってくれて、それから手伝いをするようになって――もう二年になる。
常連さんはみんないい人ばかりで、いろんなお話を聞かせてもらったり、旅のお土産を持ってきてくれる人なんかも居た。
――最初は気を紛らわすために働いていたと思う。でも、そんなお客さんたちのおかげで次第にお店に出るのが楽しみになった。
ママのことを忘れたわけじゃないけど、みんなが優しくしてくれて今の私はすごく幸せ。
私も早くパパみたいに一人前になって、みんなにお料理を作って恩返しをしたい。
今日もお昼のピークをなんとか乗り越えて、パパは二階で休憩中。最後のお客さんも先ほど会計を済ませて、店内に居るのは私だけになった。
今のうちに買い出しや洗い物、掃除を終わらせてしまおう。準備中、と書かれた札を入口に引っ掛けようとした矢先のことだった。カラン、と来客を告げるベルが鳴る。
現れたのは紫色の羽織を着た最近よく見るお客さん。
男の人にしては長い髪の毛を後ろに束ねた彼は、お昼に来ることもあれば、夕食時にお酒を飲んで帰ることもある。
私がお店を手伝いだして一年ちょっとぐらいのときは、彼を一度も見かけたことがなかった。
なのに突然、頻繁に現れるようになったから不思議に思ってたんだけど、昔このお店の常連さんだった人なんだとパパが教えてくれた。
それは私がまだ小さかったころの話で、そのときのことはよく知らない。
――そういえば初めて彼をお店で見たとき「大きくなったわね」と言われた気がする。私が覚えてないだけで、彼とは会ったことがあるのかな……。
カウンターに向かってくる彼は、へらりとした笑みを浮かべて片手を上げた。
「よっ、ロアちゃん」
「もー……また来たの?」
「ちょ、酷くない? おっさんこれでもお客様よ?」
彼は私の目の前の席に腰を下ろして「とりあえずお水ちょうだい」と言った。一度、足元の台を降りてからグラスを取って冷蔵庫を開ける。
ちなみに“台”というのは、私の身長では届かないところがたくさんあるので、お店のあらゆるところに台を置いているのだ。
氷をグラスに入れて、冷えた水をカポカポと注ぐ。そしてまた台の上に立って、グラスを彼の前に出してあげたんだけど……何故か笑われたのでムッとした。
「なに?」
「いやね、小さいロアちゃんが一生懸命働く姿が可愛いのなんのって」
「……おじさんと違って私はまだ成長期だもん」
「酷い! おっさん傷ついた!」
彼はいつもこんな調子で、初めて会ったときは酔っぱらってるんじゃないかと思うほどだった。
「お酒? 飲んでないわよ~」と言われてびっくりしたのを今でも覚えている。
それで私もつい、お客さん相手というよりは友達みたいな態度をとってしまうんだけど、彼は全然気にしてないみたいだった。
基本的には優しい人……なんだと思う。――ちょっと怪しいけど、パパは大丈夫だって言ってたし。
「……レイヴン、働かなくていいの?」
「ちょっと、それじゃ無職みたいじゃない! 今日は休みなの!」
彼はそう言って、一気に水を飲み干した。グラスの中で氷がぶつかり涼しげな音が鳴る。
「ふうん……。それで、注文は?」
「んー、と言ってもそんなにお腹空いてないのよねー……」
……じゃあなんで来たの。
むすーっと頬を膨らませると「ロアちゃんに会いに来たに決まってるじゃない」なんて言ってくるんだから、思わず力が抜けてしまった。
でも、彼が本気でそう言っているわけではないというのは知っている。レイヴンは綺麗なお姉さんが大好きで、お店でもよく一人で飲みに来た女の人に声を掛けているから。
「一回お店閉めようと思ってたところなのに……。買い出しとかも行かなきゃいけないし」
「あらら、そうだったの? それじゃおっさんと一緒に行く?」
なんでそうなるの……? 思いっきり眉をひそめて訴えてみるけど、彼は笑って眉間の皴をグリグリと指で伸ばしてきた。子供扱いやめてほしいのに。
「荷物持ちぐらいにはなるから。ロアちゃん一人だと大変でしょ?」
「パパが注文忘れた分を買うぐらいだから、べつに」
「そんな冷たいこと言わないの!」
注文する様子も席を立つそぶりも見せない彼に小さく息を吐いて“準備中”の札をお店の入り口に掛ける。
レイヴンと買い出しに行ってくる、とパパに声を掛けたら「ゆっくりしておいで」と手を振られた。レイヴンと一緒に、というところは全く気にしてないみたい。
これでも彼、一応お客さんなのに……。パパも結構レイヴンに対して雑なところあるよなあと思う。
前も名前を呼び間違えてたし……ダミュ……なんだっけ、忘れちゃったけど。違うって彼がそのとき拗ねてたのは覚えてる。
財布とメモを持って裏口から外へ出ると、ギラギラと日差しが降り注いできた。
その強さに、肌を直接焼かれているような感覚になる。帽子をかぶってくればよかった、日焼け止めも塗ってないし。
一方レイヴンはすごく着込んでるように見えるけど、平然とした様子だった。――むしろ見ているこっちの方が暑いんだけど。
「それ、暑くないの?」
「寒いのはだめなんだけど、暑いのは平気なのよねー」
……私なんてもう挫けそうなのに。まだお店を出たばかりだが、汗がおでこから浮き上がってきた。
容赦ない太陽の光を浴びて、汗は次第に粒になり、静かにアスファルトに染みを作る――そのときだった。
スッと日差しが遮られる。何だろうと思って周りを確認すると、レイヴンの影の中に居るのだと気付いた。
彼の作った日陰は涼しくて、ベタベタとした不快感もなくなっていく。普段はあんなに感じなのに、急にこういうことをしてくるなんてずるいよ……。
「……ありがとう」
「ん? んー、それで何買うの?」
「えっとね……お塩とはちみつ……あとはマスタード」
パパが言うには、お野菜とかお肉は毎日頼むから忘れないんだけど、調味料系は気付いたら切らしちゃってるんだって。
それにもう注文は済ませて明日には届く予定になってるから、今日の分だけ……つまり買うのは少しでいいみたい、と説明する。
「へえ……。マスタードって言えば、あの鮭にかかったソース? あれホント良い味してるわよねー」
「美味しいって言ってくれるのは嬉しいけど……レイヴンはもっと他のも食べなよ」
「いいのー、おっさんの成長期はもう終わってるし―」
レイヴンは顔を膨らませてそっぽを向いてしまった。まださっきの根に持ってるし……。大人の余裕を見せられたかと思えば、すぐこうなんだから。
お店に着いて、目当ての物を探す。べつに私が持っても大丈夫なんだけど、籠はレイヴンの腕の中にある。
お塩とマスタードは見つけた。後は……
「はちみつ使うような料理なんてあったっけ?」
「……レイヴンが大好きなマスタードソースの中に入れてるよ」
「ええっ!?」
彼の大きな声に、思わず周りから注目を浴びてしまう。そんなに驚かなくても、と思ったけど……そう言えば彼は甘いものが苦手と言っていたっけ。
「べつにいいじゃんそのぐらい、甘いもの食べさせてるわけじゃないんだし」
「いやあ……そうなんだけど、なかなかの衝撃だったわ……」
そういうもの……なの?
会計を済ませて、お店への道を戻って行く。レイヴンはまた、自然に日よけになってくれるように歩いてくれていた。
大きな影にすっぽりと包まれて、彼との差を実感する。子供、なんだよなあ……。どちらかと言えばパパのほうが歳が近いみたいだし。
私がもう少しはやく産まれていたら、どうだったんだろう。……こんな風に一緒に歩くこともなかったのかな。
いろいろ考えているうちにお店の前に着いていた。彼から調味料の入った袋を受け取る。
「ありがとう……あの、今日も食べにくる?」
「そりゃあ、ロアちゃんに可愛くお願いされちゃったら行くしかないじゃない?」
「べつにお願いとかしてないけど――じゃあ、また夜に……待ってるね」
はいはい、と彼は手をヒラヒラさせて姿を消した。
そして夜。開店とほぼ同時に彼は現れた。カウンター席に座り、いつもと同じメニューを頼む。
他のお客さんの注文を聞いたり、料理を運んだりしてからカウンター内に戻ると、スタイルのいいお姉さんに声を掛ける彼の姿が目に入った。
それはいつものこと、なんだけど……今日はそのまま見過ごしたくなかった。どうしてなのかわからないけど、胸の辺りがきゅっとする。
カウンターを出て、フロアからレイヴンたちに近づいていく。そして、ぎゅーっとレイヴンの腕にしがみついて言ってやった。
「パパ、不倫はだめってママが言ってたよ?」
お店の常連さんなら私とレイヴンが親子じゃないなんてことはすぐにわかるだろうけど、このお姉さんは今日初めて見るし大丈夫……たぶん。
勢いよく私のほうに振り返るレイヴンを睨んで、思いっきり舌を出す。それから逃げるようにカウンター内に戻って、仕事を再開した。
無心でグラスを磨いていると「酷い!」とか「違う!」とか聞こえてきた気がするけど――レイヴンなんて知らないし。
オーダーが一段落して、小さく背伸びをする。
一人になってしまったレイヴンはお酒をちびちびと飲んでいた。なんか、悪いことしちゃったかなあ……。
声を掛けられないままチラチラ彼を盗み見していると、目が合って手招きをされた。
「ロアちゃーん、注文―」
「まだ何か食べるの?」
「ストロベリーアイスクリーム」
……うそ、今なんて言った? アイス……レイヴンが? さっきのお姉さんと上手くいかなかったから……私が意地悪しちゃったから自棄になってる?
「え、食べる……の?」
ぽかんとしていると「いいから早く」と急かされて、慌てて準備をする。アイスクリームは、数少ない私が盛り付け担当の商品。
――盛り付けといっても、アイスの上にミントを乗せてお皿にソースをかけるだけなんだけど。
恐る恐る、レイヴンの前にアイスの乗った小皿を差し出す。……ほんとうに食べるの? 大丈夫なの?
でも、彼がここでデザートを頼んだのは初めてで、甘いものを食べているところを見てみたいという興味もある。
じっとレイヴンの動きを待つ――彼は小皿に乗せられたスプーンでアイスをすくって……
「んむ?」
突然、口の中に冷たさと甘さが広がった。何が起こったのかすぐに理解できなくて、瞬きを数回繰り返す。
そんな私を見て、レイヴンは目を細めた。彼のスプーンからはアイスが消えていて……なんで私に食べさせてるの。
次第にぬるく甘くなっていく液体を、こくんと飲み込む。
「かわいい」
全部食べちゃって、とレイヴンは自分の隣の椅子をポンポン叩いた。
「し、仕事中だし!」
「えー、おっさん一人になっちゃって寂しいー。パパー、ロアちゃん借りていいでしょ~?」
レイヴンは厨房にむけて声を上げた。ダメに決まってる、と思ったのに――パパは親指を立てて頷いた。なんなの、この人たち……。
カウンター席の椅子は私にはちょっと高い。座るというよりも、よじ登るという感じだ。
マットの部分に手をついて力を入れようとすると、急に体が浮かぶ。後ろを見上げると、レイヴンの顔がすぐそこにあった。
思ったよりも彼が近くて、肩にぴくりと力が入る。
「ちょっと!」
「ほらほら、アイスが溶けちゃう」
「むー」
椅子に座らせられて、アイスを口に運ぶ。美味しいんだけど……隣からの視線が気になってアイスに集中できない。
レイヴンは頬杖をついて、お酒を飲む手も止めて、ただ私が食べる様子を見ているだけ。
「なに?」
「んー、平和だなーって」
「え?」
「ロアちゃんが大人になるのをいつまでもここで見守っていられたら、おっさん幸せだなあって」
「……じゃあ、これからも食べに来たら?」
穏やかに笑った彼に、優しく髪を撫ぜられる。また子供扱い……と思ったけど、今度はそんなに嫌じゃなかった。
――だって、私が大人になるまでずーっと、見守っていてくれるんだよね?