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イニスフリーの少女

イニスフリーの少女

 倫敦の街を遠く離れた、牧歌的な風景が広がる地方。知人の実家があるという場所は、そんなところだった。大都市の環境へ慣れた身にとって、こののどかさは異国的にすら感じられた。途切れることのない喧噪、すすけた空気、視界を埋め尽くす人工物、そういったものとはまるで縁がないように見える、穏やかな土地だった。
 列車を乗り継ぎ、あちこち歩いて、ようやく知人の実家があるほうに向かうという馬車を見つけ、話をつけて乗せてもらう。ごとごという音と心地よい振動で思わず眠りそうになったが、御者の老人に呼ばれてはっと起き上がった。礼の言葉とともに、少ないながら金を払おうとすると、軽く笑われて止められた。都会の人はしっかりしてるねえ、と言い残して、老人は馬車を進め、去っていった。ここからあとは歩きだ。彼は荷物の入った鞄を持ち上げて、田舎の道を歩きはじめた。
 知人の実家と思しき建物にたどりついた時、日は空高く昇って、熱く眩しい光を地上にふりまいていた。数時間ほど歩いただろうが、彼の頑丈な体は疲れを知らないまま、呼吸も乱れていない。建物は小さめの屋敷といった外観をしていて、倫敦ではほとんど見られない、簡素で素朴なつくりをしているようだった。柵で囲われた敷地には植物がよく生い茂り、あるものは柵をこえて、好き勝手に芽や花を開かせ、何にもさえぎられることなく背を伸ばしている。
 どこから入ったものかと探す彼は、柵が途切れたところから伸びる、煉瓦の敷かれた道を見つけた。その道が終わったところに、大きめの勝手口、といった見た目の出入り口がある。あれが玄関だろうか。間違って裏側にまわってきてしまったのかとも思ったが、念のためにと近くを歩いて探しまわっても、これ以外に玄関らしい場所は見つからなかった。ならば、とドアノッカーを鳴らすが、中からの返事はない。もう一度、今度は強めに鳴らしてみる。

「はああい」

 間延びした幼い声が聞こえてきたのは、扉の向こう側ではなく、脇からだった。声のしたほうを向くと、屋敷の角からひょこっと顔を出す者がいた。

「あっ、おじさん」
「む、君は……」

 顔は記憶にあるのだが、名前が思い出せない。知人の妹だが、歳が離れているので、下手をすると娘にも見える。彼女は日よけの帽子をかぶり、涼しげな色のワンピースを着て、片手には小さなスコップを持っていた。

「すまないが、名前を忘れてしまった。なんといったかな」
ロココ
「ああ、そうだった。ロココ、君のお兄さんはいるかね?」
「いないよ」
「留守なのか?」
「お兄ちゃんは、おでかけ」

 おでかけ……
 ロココから話を聞くと、家でこちらを待っていたところに急な呼び出しがかかって、どうしても外せないので、家人に迎えを任せて外出したとのことだった。
 ……帰省しても、相変わらず忙しくしているようだな。
 玄関先で考えこむ彼の耳に、ロココや知人のものとは異なる声が聞こえてきた。

「お嬢さま、どうしました」
「おじさんが来たよ」
「おじさんと言われましても……あっ! これは、ヴォルテックス卿ではありませんか」
「申し訳ない。本日訪問すると前より約束をしていたのだが……十五分五十五秒の遅れだ」
「そうだったのですか。倫敦より遠路はるばるいらっしゃるとは、さぞやお疲れでしょう。どうぞ中へお入りください」
「うむ。失礼する」
「さ、お嬢さまも」
「はあい。ねえおじさん――」
「お嬢さま、スコップはもとあった場所に戻してくるのですよ。手についた土もしっかり落としてきてくださいね」
「……わかったよお」

 面倒くさそうな表情をうかべたロココは、大人たちのあいだを器用にすり抜けて、屋敷の中へ走っていく。この屋敷に仕える執事であろう、初老の男性は、やれやれ、といった様子で彼女を見送る。

「ずいぶんとお転婆な子だ」
「ええ、それはもう。毎日のように手を焼いております」

 こちらを振り返った彼の顔には、困ったような笑みがうかんでいたものの、同時にどこか嬉しそうでもあった。幼子の世話をすることと同様に、手を焼かされることすら楽しんでいるように見える。
 その気持ちは分からないでもない。知人に連れられて中央刑事裁判所を訪れていたところに出会った初対面から、今までのことを思い出す。自宅を出て遠く、ここよりはるかに都会的な倫敦でも、そのお転婆ぶりはなりをひそめることなく、充分に発揮されていた。そして、倫敦の上流階級に身を置き、そこの常識や言動に慣れてしまった身としては、ロココのふるまいはより愛らしいものとして映った。
 屋敷の中に足を踏み入れ、案内された客室で椅子に腰を下ろす。執事が、少々お待ちを、と言って部屋を出ていったしばらくあとに、ロココが現れた。部屋へ勢いよく飛びこんでくる姿は、今にもつんのめってしまいそうで、思わず手をさしのべたくなる。ロココはこちらの姿を認め、小さな花がぱっと開いたように明るい笑みをうかべ、駆け寄ってきた。

「おじさん、今日はしごと?」
「いいや。長い休みがとれたので、遊びに来たのだ。君のお兄さんには前から、遊びに来てほしい、と言われていたのでね」
「とまっていくの?」
「邪魔でなければ、そうさせていただこう」
「ジャマなんかじゃないよー、ぜんぜん! ねえ、おじさん」
「ん?」
「お庭いこうよ。花がいっぱいさいててきれいだよ」
「そうか、そうだな……」
「お嬢さま。ヴォルテックス卿は長旅でお疲れなのですから、あちこちお連れしてはいけませんよ」

 いつの間にか戻ってきていた執事が、ロココを少しきつめの口調でたしなめる。両手で持った丸いトレイには、ティーカップと菓子がのっていた。実のところ、それほど疲れてはいないのだが、気づかいを否定することもないだろう、と黙っていた。テーブルに置かれたトレイを見て、ロココがぱっと駆け寄る。まったく、突風のような子だ。

「いいなあ、わたしにもお菓子ちょうだーい、ねえー」
「いけません」
「けち!」
「お菓子はお茶の時間だけという約束です」
「おじさん、はんぶんこしよう」
「お嬢さま!」

 鋭く叱りつけられたロココは、ぴゅっとその場を離れてこちらの後ろに隠れ、執事に向かってべっと舌を出した。さすがの執事もこれには本気で困ったらしく、迷惑そうな表情をうかべている。

「菓子の制限は、体質的な問題なのか?」
「いいえ、そういうわけではありません。ただ、あまり甘やかさないようにとのことでして。教育方針の問題でございます」
「今日はお客さんが来てるんだから、いいでしょ」
「いけません。お客様がいらしていればなおのこと、お行儀よくしなければ」
「……」

 どうあっても納得しなさそうなロココは、むくれた顔で執事を睨みつける。
 ごゆっくり、と言い残して、執事は部屋を出る。その背中を見送ってからしばらくあとに、彼は椅子から立ちあがり、テーブルへ歩み寄る。そして、皿の上へ行儀よくのせられた菓子を手にとり、それを丁寧に半分へ分け、片方をロココにさしだした。

「食べなさい」
「……いいの?」
「もちろん。ただし、このことは誰にも秘密だ」
「うん!」

 半分になった菓子を両手でそっと持ち、大切な宝物を眺めるようにじっと見つめてから、ふいにこちらを見あげた。

「ありがとう、おじさん」

 礼を言って、ロココは笑う。その笑顔を見ると、笑うことが得意でない自分さえ、ふっと自然に微笑みをうかべることができた。
 あまり甘やかさないようにとのことでして……という、執事の言葉がよみがえる。最初こそ、こんな子に対しても厳しく接することができるとは、と感心していたが、教育方針という大義名分を立てておくことで、ロココを甘やかしてしまわないよう、自身をいましめているのかもしれない。
 ……この子は一体、どういう女性に育つのだろうか。
 一抹の不安を覚えながら、ロココを見つめる。彼の心配などどこ吹く風で、ロココは菓子を夢中でほおばっていた。手に残ったもう半分の菓子は、皿へ戻しておく。気づかいはありがたかったが、甘いものはあまり口にしたくない。どうせなら一個丸ごとロココにあげてしまってもよかったか、それはさすがに甘やかしすぎというものだろう。

「お庭いく?」
「ああ、行こう。案内を頼む」
「うん」

 ロココはまたしても嬉しそうな笑みをうかべ、こちらの手を握って引っ張る。ロココの手は小さく、握るというよりは、つかんでいるといったほうがより近い。急かすように手を引き、こちらを振り返ることなく、庭へ続くガラス扉を見つめるロココは、早く庭を案内したいという気持ちでいっぱいのようだ。
 ロココがガラス扉を開けると、何かの香りが鼻先をかすめた。それが何か確かめようとするより早く、部屋の中にただよっていたものとは違う、澄んだ空気が体に吹きつけてきた。眩しさに目を細め、くらんだ視界がはっきりしてくる。小さなテーブルと椅子が置かれたそこは、こんもりと丸い茂みに囲まれている。柵沿いに植えられた木々が寄り添って木洩れ日をつくり、庭の隅には古びたアーチが、放置されたようにぽつんと立っている。
 貴族が所有する庭園にあるような、壮麗な美しさも、胸の詰まるような芳香もない。しかしそこにないものが、ここにはあった。陽だまりと澄んだ空気、満たされた静寂。整えられていない植物たちの、雑多な生命感。庭を囲む茂みの向こうへ、何にもさえぎられず広がる空と大地。

「おじさん」

 ロココに呼ばれて、はっと我に返る。見下ろすと、ロココはこちらの手をつかんだまま、嬉しそうに微笑んでいた。

「すまない。呆けてしまった」

 ロココは何も言わず、そうなることを予想していたかのように、にっこりと笑った。そして彼女はふたたびこちらの手を引っ張り、テーブルと椅子のそばまで行くと、すわって! と椅子を示した。言われるままに腰を下ろすと、ロココが膝の上に飛びのってきた。ロココの体は小さく、そして軽かった。風がそっと庭を吹き抜けていくと、緑はざわめき、花は小さく揺れる。体をそっとなでていくような風は、陽ざしであたためられた肌に心地よい。
 こうも穏やかな気持ちになったのは、いつぶりだろうか。分刻みの仕事に追われ、いっときたりとも気の抜けない社交に囲まれて、やすらぎとは無縁の生活を送るうち、いつの間にか“疲れる”ということすら忘れていた。しかし今は違う。内側からにじみだすように、疲れがゆっくりと全身を覆っていく。椅子へ沈みこんでいくようだ。瞼を閉じると、陽ざしや風や、いろいろな音が、よりはっきりと感じられるようになった。意識がぼんやりとして、思考が鈍っていく。
 ……ここにいる間だけだ。ここにいる間だけは……

ロココ
「なに?」
「すまないが、少し眠りたい」
「お部屋いく?」
「いや、ここでいい」

 断られても、ここから動けないだろう。ぼやけた意識のなかで、彼はそう考えた。瞼を開けることすら億劫なのだ。
 ロココからの返事はなく、かわりに彼女の重みが膝から消えた。足から降りて地面に立ったらしい。
 肘かけの先に置いた手へ、あたたかくてやわらかいものがそっとふれてくる。ロココの手だ。

「おじさん、つかれてるんだね」
「……どうやら、そのようだ」
「お兄ちゃんもね。つかれてるときは、ここに来てやすむよ」
「そうか」
「おじさん」
「……」
「……大人って、つかれることばっかりなの?」

 ふれてくるロココの手が、答えを求めるようにつかんでくる……彼女の問いには、答えられなかった。そうだ、と言ってロココを不安がらせることも、違う、と嘘をつくことも、どちらもしたくなかった。

「……それは、自分で確かめるしかないな」
「……」
「大人になるのは、怖いか?」
「……すこし」
「そうか。……心配はいらない。君にはお兄さんも、私もついている」
「……うん」

 ロココの手が離れる……と、頬に何かがふれた。
 手とは違うやわらかさをもつものが、頬へ軽く押しつけられる。

「おやすみ、おじさん」

 瞼を開けると、ガラス扉に向かって走っていくロココの背中が見えた。

「……」

 重い腕を上げて、指先で頬にふれる。先ほどのささやかな行為を思い起こさせるものは、何一つない。頬にふれたやわらかな感触が、記憶の中に残っているのみだった。
 ……一体、どこで覚えたのだ。
 ロココの後ろ姿が見えなくなったあとも、彼は思わぬ行為に複雑な感情を抱きながら、ガラス扉を見つめていた。

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